Archive

なぜ日本人は超大国中国を恐れないのか?
なぜ日本は中国に強気な態度なのだろうか?
周辺国で言えば、韓国とロシアが領土を占領しても黙っている。
しかし、戦争の損害賠償も請求せず、日本の領土を一切占領していない我が国への日本の態度は常に強硬だ。
ロシアに対してならならまだ分かる。
ソ連時代よりも貧乏で弱体化したとは言え、まだまだ国際社会に影響のある軍事大国だからな。
でも、韓国のようなクソ国よりも中国に強気なのはどういうことだ?
まだまだ問題はあるとは言え、中国は米国に唯一比肩し得るかなりの超大国だろう。
しかし、外交では挑発し、日本企業は中国人から金をむしり取ることに一切容赦がない。
なぜ日本は中国を恐れないのだろうか?

日本が中国のことを「シナ」と呼び始めた理由と呼ばなくなった理由
清朝の時、日本は中国のことを「清国」と呼んでいた。中華民国になると、日本は中国のことを「シナ(支那)」と呼ぶようになった。これはなぜなのか。
「China」を日本語で発音すると、「シナ」になるからだ。明治維新で、日本は西洋文化を取り入れる際に、中国の呼び方も英語の呼び方に統一しようと言うことで、「シナ」になった。軽蔑的な意味はまったくなかった。
しかし、国民党政府とやりとりするときは、日本は中国のことを「シナ共和国」と呼んでいた。「中国」という言葉は、「中心にある国」という意味なので、中国にはふさわしくないと日本人が判断したからだ。そのため、その時から。「シナ」という呼び方には軽蔑的な意味が含まれるようになった。
ちなみに、当時の日本は自国のことを「日出ずる国」と呼んでいたらしい。よくそんな恥ずかしい呼び方ができたものだ。
「シナ」という呼び方に、国民党政府は我慢することにした。なぜならあの時の中国は弱すぎたからだ。しかし、1930年に、堪忍袋の緒が切れた国民党政府は、二度とその呼び方を使うなと日本政府に通告した。
それに応じ、外交文書ではその呼び方をやめた日本だが、自国ではその呼び方をやめなかった。
戦争で中国に負けた戦後日本からは「シナ」という呼び方が消えた。最初の頃には一部のマスコミで「シナ」が引き続き使われていたが、中国とアメリカの抗議によって、日本政府はついにその呼び方を公式に禁止した。それでも中国のことを見下す日本人は、プライベートでその呼び方を使い続けた。
「シナ」という言葉が本当の意味で死んだのは、朝鮮戦争以降だ。あの強いアメリカを押し返した中国を再び尊敬するようになった日本は、「中国」という呼び方で呼ぶようになった。
戦後生まれの日本人にとって、「シナ」という言葉が見られるのは、辞書の中ぐらいだろう。

日本人の知人との食事中、原爆投下について話してくれました
日本人「何十年も前に、日本の広島と長崎に2つの原子爆弾が投下され、多くの人が亡くなりました」(悲しげな表情で)
私「なぜそうなったのか知っていますか?」
日本人「アメリカ人は日本で原爆の実験したんだと思います」
私「いや、日本がその前に何をしたか知っていますか?」
日本人「何やったの?」
私「では、南京大虐殺について知っていますか?」
日本人「わからない」
私「あなたは日本が原子爆弾が投下されたことを知っているだけで、なぜそれが投下されたのかについては考えていません」
その時、私は本当に彼の顔に料理をブッかけたかったです。
彼は当時日本が犯した犯罪を本当は知っているんだと思いますが、彼はそれを認めたがりませんでした。
私は日本人に偏見はなく、多くの日本人と上手く付き合っています。
しかし、日本のメディアの反倫理的なモラルに洗脳されてる人も少なくありません。
私たちの国は、憎しみではなく、歴史を記憶することを教えています。
しかし、日本の人々は教科書を変えようとしています。
NHKのようなテレビ局はまだ彼らを洗脳し続けています。

記録に残る日本軍兵士の異常な強さ
現代の抗日ドラマでは、中国兵が一人で大量の日本兵を殺したり、投石で戦闘機を撃墜したりするシーンをよく見かける。
が、実際の日本兵は、米軍も舌を巻くほど強かった。
マッカーサーが部下と交わした会話の記録にこう残っている。
「日本兵はドイツ兵より獰猛な獣だ。対峙する際は3倍以上の兵力で挑むように」
日本軍の異常な強さが窺えるだろう。
第二次大戦では、日本軍の装備は決して良くはなかった。しかし、団結力と兵士一人一人の強い戦闘力で連戦連勝した。
その強さの証拠の一つとして、太平洋の戦場では、米軍の投入兵力に対して、日本軍は平均してわずか1/5程度の兵力で戦っていた。1人の日本軍兵士に対抗するために5人の米兵が必要だったということだ。

かつては中国をお手本にしてた日本が、なぜこれほどまでに中国のことを目の敵にするようになったのか
中国は日本と緊密な関係を持っている。中国と日本の付き合いは西漢時代まで遡る。唐の時代では、日本は中国に遣唐使を送ったりして、中国をお手本にしていた。ではなぜそのような日本は、明治維新以降は中国を目の敵にするようになったのか。
まず一つに、日本は明治維新で近代化を達成した。そういう状況に合った日本は、イギリスとフランスのように、さらなる発展のために侵略の道に進むことを選んだ。そういう日本は、朝鮮半島を拠点に、中国を侵略しようとしていた。
日中関係をさらに悪化させた事件はもう一つあった。それはいわゆる長崎事件だった。簡単に言えば、1886年に長崎港に入港した北洋艦隊の水兵が長崎の警察官ともみあいになった事件だ。北洋艦隊は軍事力を持って、日本側が妥協しなければ長崎を砲撃すると脅迫した。当時軍事力で清国に劣った日本政府は妥協することを選び、清国に賠償金を払った。その事件で、日本全国は清国を目の敵にするようになった。

なぜ建国してたった200年の新興国の科学技術に5000年の歴史ある中国が敵わないのか?
お前らはどうしてしまったんだ?
5000年の歴史はここでお終いか?
文化を継承することもできず、祖先の築いてきたものを継ぐこともできない。
それどころか西洋のものに夢中で、アメリカや日本の奴隷になることを喜んでいる。
こんなことを祖先たちは喜んでいると思うか?
この土地で祖先たちが必死に頑張ったことを忘れないでくれ。
自分の国を貶めたり、国民を軽蔑したり、政府を罵ったり、社会を堕落させたのは誰だ?
冷静に考えてみろ。
政党を批判してどうする?
知っているだろう!?
中国には共産党しかないんだって。
だからいつまでも政党を批判するのはやめろ。
党も中国の一部であり、中国人の一部なんだよ。
彼らは我々を導いてくれているんだよ。
個人的な原因で全てを否定しないでくれ。
共産党が滅亡したら、中国も間違いなく滅亡するんだぞ!

日本人のことを鬼子と呼ぶようになった理由
日清戦争の前、清の大臣・李鴻章が使節として日本に行った。
会談が終わって、双方が合同記者会見を行ったが、日本人が世間に武力を誇示する上に、文化上でも清朝を侮辱したかった為、記者が集まると日本側が関係のない問題を提示した。
「日本に対聯の前の句があるが、下の句がない。だから漢文の生まれの地の人に頼みたい。」
と、上の句を出した。
「騎奇馬、張長弓、琴瑟琵琶、八大王、并肩居頭上、単戈独戦」
この日本の前の句の意味は:日本は、兵隊が強く、千里を走れる馬に乗り、使ってる弓の射程は長く、八人の王がいて、彼らは傑出した知恵と遠大な計略を持っていて、文徳を示し武力を見せる。だから日本は中国に勝てるだろう。
これに対し、李鴻章も弱みを見せず、日本にすずりや墨を用意させ、紙を敷かせた後、下の句を書いた。
「倭人委、襲龍衣、魑魅魍魎、四小鬼、屈膝跪身旁、合手擒拿」
記者たちが見て、素晴らしいと評価した。
その意味は:やはり倭寇だ。清朝の龍服を盗みに来たのか。兵は強く馬も頑強というが返り討ちにしてみせよう
それから、みんなは日本人を倭寇と呼ばなくなり、四小鬼を元に「鬼子」と呼ぶようになったそうだ。